風立ちぬ [DVD]

風立ちぬ [DVD]詳細

風立ちぬ [DVD]

#60

ジブリがいっぱいCOLLECTION
宮崎 駿 監督作品
『風立ちぬ』

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かつて、日本で戦争があった。

大正から昭和へ、1920年代の日本は、
不景気と貧乏、病気、そして大震災と、
まことに生きるのに辛い時代だった。

そして、日本は戦争へ突入していった。
当時の若者たちは、そんな時代をどう生きたのか?

イタリアのカプローニへの時空を超えた尊敬と友情、
後に神話と化した零戦の誕生、
薄幸の少女菜穂子との出会いと別れ。

この映画は、実在の人物、堀越二郎の半生を描く─。

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【商品仕様詳細】

<仕様>
片面2層 2枚組/アマレーダブル/ピクチャーディスク/MPEG2/NTSC、日本国内向け(リージョン2)/複製不能、マクロビジョン

<画面サイズ>
16:9ワイドスクリーン

<音声>
日本語(2.0chモノラル/ドルビーデジタル)
英語(1.0chモノラル/ドルビーデジタル)

<字幕>
日本語、英語

<映像特典>
●絵コンテ
●予告編集
●ひこうき雲 ミュージッククリップ

<同時発売>
『風立ちぬ (ブルーレイディスク)』

※商品情報は変更になる場合があります。

風立ちぬ [DVD]口コミ

主人公と声優で魅力を感じる事が出来ず個人的に戦争描写がある作品は精神が疲れる為、長い事観たことが無かった作品でしたが何とく観たくなり購入しましたが素晴らしい作品でした。

子ども用に、集めたい作品でした。良いですね

最初にお断りすると、私は熱狂的な宮崎駿ファンではないです。
作品はいくつか見ていますが。
なぜ、この作品のよさがわからない人が多いのかなあと思います。
私は戦後生まれですが、両親・祖母が戦争を知っているので、当時の話も少しだけ聞いたことがあると思います。
まあ難しいでしょうね。何を言いたいのかわからないというような意見もよく見ます。
当時の日本の空気が伝わってきます。
「この国はなぜこうも貧乏なんだろう」とか、「俺たちは二十年は遅れている」(三十年だったか?)「恐るべき後進性だ」とかいう言葉があるように、当時の日本は貧しくて、技術もなかったわけですよ。豊かな日本に生まれた方にはわからないのでしょうね。
国は戦争に向かっていくうえに、婚約者は不治の病にかかっている。主人公は、同時に二つの厳しい現実に追いつめられながら、必死に生きているわけですよ。なぜその苦しみがわからないのでしょうか。声優がどうのとか、細かいことではないですか。
まあ、当時の日本でこういう恋愛ができたのか少し疑問に思いましたが、いいではないですか。今の時代だけ知ってる人にはピンとこないのでしょう。結婚していない男女が二人で同居するなんて簡単でしょうけど、昔は厳しかったのですよ。だから、主人公は「結婚します」と言ったのでしょう。
自分がよかったからと言って、人にいいと思えというのも無理だというものですから、人には押しつけません。が、私はいい映画だと思います。

引退作品と語っておりましたが、やはり新作を撮るそうですね。

妙な外国人と女の出番が多すぎて尺が全然足りていない
案の定ゼロ戦の出番はなし
もっと技術者と航空機とのせめぎあいを期待していたのだが
良くも悪くもジブリという事か

ほぼノンフィクション寄りのジブリの映画はこれまでになかった。鑑賞できてとても良かった。

一言で評価すればすこぶる「上質」な作品であるということです。ただ、「風立ちぬ」を観て最初に感じたのは、ある種の戸惑い乃至歯がゆさのような感覚でした。他の宮崎作品のように、物語の進行に沿って観客も自然なプロセスのうちにその進行に随伴していくという、物語と観客の即時性から距離をおいて、どこか物語がひとり孤高性を帯びているような印象を受けました。作者の裡にあって、作者の資質を形成する重要な「核」を表現していることは直観しつつも、その核がどのような構造で形成されているかを俄かに説明できない歯がゆさのようなものといったらいいでしょうか。
「風立ちぬ」以前の宮崎作品は、どの作品もそれ自体に明確なプロットが与えられていて、それを観る者は、程度の差はあっても、作品が訴えるメッセージをごく自然に受容することができました。ナウシカ、ラピュタ、魔女の宅急便、トトロ、もののけ姫、ハウルの城、千と千尋等々の作品は、観客個々人の人生体験(読書体験を含めて)の如何にかかわらず、個々の観客にとって作品から受ける印象はそれほど大きな差異はなかったように思われます。様々な観客に対する入念なサービス精神、どんな観客に対しても作品の持つメッセージを揺らぐことなく観客に伝達する、そうしたポピュラリティが担保されていました。換言すれば、「風立ちぬ」以前の作品はそれ自体完結していて、作品の持つメッセージにおいて、観客の裁量にゆだねる部分は能う限り少なかったということができると思います。
 映画は多額の製作費を費やす興行ですから、可能な限り多くの観客を集客する必要があります。一方で監督や脚本家の思想や作家精神が厳然としてあって、集客を担保しつつ、作者の主張を最大限作品に表現することに腐心するというのが映画という表現技法の属性かと思います。監督や脚本家の主張だけが突出して集客が望めないのでは、高い芸術性があっても映画という興行は成り立ちません。さりとてエンターテイメントだけが勝る映画では物足りない。芸術性の定義は大変難しいですが、あえて芸術性を定義するとすれば、作品に向き合う読者や観客に対して、常に問題提起をする。作品に触れた読者と観客をして、自己と外部世界の関係について自問や内省を喚起する作品が芸術的であるということがさしあたりいえるかと思います。
 興行と芸術性という異なる要素を如何に高い次元でバランスさせるかというのが映画製作者に課せられた宿命であるならば、宮崎作品は作者の思想と観客の支持が見事に一致した幸福な事例のひとつと云えるかも知れません。宮崎アニメを観る多くの者は、宮崎駿という映画作家が紡ぐ物語を堪能しつつ、そのメッセージを理解し、その思想に共感する。ジブリ作品には確かにそうした製作者と観客の交歓の時間が存在しています。
 一方「風立ちぬ」についていえば、それ以前の作品とは少しくベクトルが異なる印象を受けました。明瞭な物語として完結していて、観客はごく自然に作品世界にトランスポートしていくといった直線的なベクトルではなく、観客をして時に立ち止まり、時に思案するというような屈曲する複数のベクトルを感じます。観客を作者の世界に直線的に引き寄せる技法ではなく、むしろ作品の解釈を個々の観客の裁量にゆだね、作者は観客の感情世界から一歩距離を置き、どこか突き放した態度を感じさせるところがあります。換言すれば、宮崎駿はこの作品の製作の過程で、観客に至福の時間を提供するというアニメ作家としての利他的な使命から解放されて、利己的な自由の世界に身を置いて居る、そんな印象を受けます。もちろん此処でいう利己とは、他者の幸福を犠牲にして自己の幸福を追求するという恣意的利己ではありません。あえて利己に徹することが結果として他者の至福を招来するという、自身のアニメ映画作家としての主義、思想に対する全幅の信頼を此処に感ずることができます。
 映画「風立ちぬ」には、舞台でいえば観客が即座に解釈できない様々な書割、小道具が仕掛けられてますね。堀辰雄を読んだことのある者や堀越二郎の経歴を知っている者なら、ある程度はこの作品のメッセージは理解できると思いますが、堀辰雄や堀越二郎に全く接したことのない観客にとっては、この作品の解釈は結構ハードルが高いと思われます。
 宮崎駿がゼロ戦の設計技師堀越二郎を取り上げた理由は明白で、テレビのインタビューだったのか、新聞記事だったのかは覚えていませんが、宮崎駿の原点はサン・テグジュペリの「星の王子様」であるということを読んだ(観た)記憶があります。飛行機で郵便物を届けるという物語が宮崎の原点だとすると、宮崎作品に空を飛ぶシーンが頻出する理由が解るような気がします。ナウシカ、ラピュタ、宅急便、トトロ、千と千尋、虹の豚しかりです。宮崎駿にとって空を飛ぶことが抜きがたい憧憬であることは想像に難しくありません。三島由紀夫にとって海が宗教であったように、宮崎駿にとっては空が宗教と云っても良いかも知れません。
 一方、空への憧憬を体現した飛行機設計技師の堀越二郎に対して、堀辰雄はどのような立ち位置にあるのか。この論題の解釈は正直なところ難しいですね。宮崎駿が堀越二郎と堀辰雄にリスペクトを抱いていたことはテロップの「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」に端的に表れていますが、それは宮崎駿のすこぶるプライベートな世界のことであって、現実世界では堀越二郎と堀辰雄の接点は全くありません。さらには堀越二郎と堀辰雄の表現者としての人格にはほとんど共通点はないように思われます。堀越二郎が自身の裡にある唯一無為の目的に向かう直線的なベクトルを表現するのに対し、堀辰雄が表現するのは複数の屈曲したベクトルです。複数の屈曲したベクトルという観点に立つと本庄と堀辰雄はかなり重なるところがあります。堀辰雄の人格を投影させたのは堀越二郎ではなく、むしろ本庄なのではないか、そんな風にも思えてきます。いずれにせよ堀越二郎と堀辰雄という、およそ対蹠的な二つの人格にあって、なぜ宮崎駿は堀辰雄の「風立ちぬ」を堀越二郎に投影させたのか。その理由は依然として良く解りませんが、想うに宮崎の頭の中では、堀越二郎と堀辰雄は自身の思想を投影できるアイデンティティを持った同一の個人として矛盾なく収まっているということかもかもしれません。
 さて、映画の個々のシーンに目を向けると、この作品に上質と品位を与えているシーンが随所に顕現します。二郎が投宿する軽井沢のホテルで、あるドイツ人と会話する場面があります。ドイツ人がおもむろに軽井沢とドイツのとある地方の類縁性に言及します。それに対して二郎は即座に、「トーマス・マンの魔の山ですね」と反応する。このエピソードには、一定の知性・教養を備えた者どうしのみが交換≒交歓できる上質な会話のやり取りがあります。魔の山を知らなければ、見知らぬドイツ人の放った言葉を理解できないけれど、二郎はたまたまホテルで居合わせたドイツ人のその言葉に即座に反応する。このリアクションは一定の教養・知性を備えた者どうしにあって、初めて可能なことなのですね。さらに興味深いのは、このドイツ人の名前がカストルプということです。トーマス・マンの「魔の山」の主人公は、ハンス・カストルプといって、結核の療養所(サナトリウム)で療養する青年の名前です。宮崎駿は意図的に、このドイツ人に魔の山の主人公の名前を冠したんですね。軽井沢、サナトリウム、魔の山、カストルプ、冨士見高原療養所、これら固有名詞を関係づける機縁が見えてくると、「風立ちぬ」は俄然面白くなります。「風立ちぬ」には、こうした作品の背景=書割、小道具が随所に織り込まれていますが、そうした機縁の糸を暗示にとどめ、作者自ら説明していません。他の宮崎作品とは異なって、一見しただけでは物語の構造がわかりづらく、最初に戸惑いを感じた理由はここにあるような気がします。
 そして圧巻は、ホテルの夕食時、カストルプがピアノを弾きだし、二郎と菜穂子の父親がピアノに呼応してドイツ語で歌いだす。この場面は実に素晴らしい。二人が「Das gibt’s nur eimal. Das kommt nicht wieder.」と歌うシーンはすこぶるドイツ人好みのシチュエーションです。ホテル、宴、音楽とくると、「ベニスに死す」でビスコンティが映像化したシーンを彷彿とさせるものがあります。
 ところで、主人公の堀越二郎と二郎をとりまく一群の人々、菜穂子とその父親、二郎の同僚、ホテルのドイツ人客、等々、この作品に登場する人物は総じて一定の教養階層=ブルジョアです。ブルジョアというと保守階層として全共闘世代から指弾された負のイメージがありますが、もともとブルジョアは保守主義者ではありません。19世紀末から20世紀初頭の西欧社会に登場したブルジョア階層は、資本社会の発生に伴って生まれた資本家や財閥を担う企業人や知識人で、中世から続いてきた貴族や領主に代表される保守主義者とは明らかに異なる階層です。彼らは出自よりも知性や教養、法理や理性、自由を重んじ、進取の気性に富んだいわゆる近代理性主義の精神の持ち主でした。したがって20世紀初頭のブルジョアとは、保守主義者よいうよりも、むしろ既存の体制の変革を試みる革命家と云った方が正しいかと思います。これら教養階層が織りなす一群のエピソードが、この作品に上質さを与えている最も大きな理由かもしれません。
 今日では教養という言葉は、ほとんど死語になっているようで、死語というよりはネガティブな語感さえ含む言葉として扱われています。教養は、ある分野における稀有な知識、情報を基盤として、そうした知識、情報を論理化し文脈化する知性といえますが、「風立ちぬ」には知性主義が通奏低音のように流れていて、反知性主義が跋扈する今日の日本社会においては、むしろ斬新とさえ言い得ます。
 いずれにしても、宮崎駿の遺作となるかもしれない「風立ちぬ」は、その上質さにおいて、その気品において、その知性主義において、その余韻において、その折り目正しさにおいて、宮崎駿の傑作のひとつとして評価されると思います。

最後までちゃんと観れました。